身近な人の死に際しての動揺についてつづられたエントリ。
僕の場合、10 年ほど前に高校時代の後輩が急逝したときに、人生の重みをかみしめたおぼえがある。彼は今思えば太陽のような男で、一点の曇りもないような、誰からも愛されていた好漢だった。亡くすには惜しすぎる人物だった。その彼の死に際して、僕は彼の分まで生きなければならないと感じた。きっと彼の周りにいた人たちすべてが、同じような想いを抱いたのではなかったか。当時の僕らはみんな 20 代前半だった。その年代でこのような視点を持てたことは、とてもよい経験だったはずだ。
余命宣告されようが健康体であろうが、すべての人に平等に死は必然。つまりすべての人は余命宣告されたも同然の存在。だから一日一日を大切に過ごすが吉。
でもこの余命の存在を普段は忘れちゃうのよね。それはもったいないことだ。
そう、人は、いや生物はいずれ、必ず死ぬ。そうならば、日々なるべく悔いが残らないように生きていきたいものです。自分は何のために生きてるのか。どうしたら自分が幸せなのか。おっしゃるとおり、1日1日を大事に過ごしたい。というわけで、TB返しです。
どうやって生きていこう、と考えるのはとてもよいものだと思います。これが病気の最中だと「なんで生きてるんだろう」という否定的思考になりがちなのでおそろしいものです。
「なんで生きてるんだろう」に明確な答えなんかあるわけないのだから,答えは必然的に「生きてなくてもよい」になり,やがて「生きていない方がよい」になっていきます。<br>聞かれたほうも答えられないんだよね。いい加減なことも言えないし,黙ってたら「ほーら,やっぱり生きてないほうが良いんだ」とか言われちゃうし。<br>生きててくれりゃいいのよ,まずは。なによりも。
そうなんですよね。他人の受け売りですが、「なんで生きてるんだろう」を突き詰めて考えていくと、答えは絶望的なものにしかならないような気がします。<br><br>それと、「生きていればそれでいい」という言葉にはとても価値があると思うのですが、これまた病気の最中では心に響かないものだと思いました。なにしろ生きていること自体が苦しいので、外部から「生きてくれよ」と言ってもらっても、ありがたいどころか無理難題を言われているような感覚になってしまうのです。
>なにしろ生きていること自体が苦しいので、外部から「生きてくれよ」と言ってもらっても、ありがたいどころか無理難題を言われているような感覚になってしまうのです。 <br><br>これ,よくわかります。だから無邪気に「生きててくれるだけでいい」ともなかなか言えない。だけど,それ以外に言えそうなこともない。どうすればいいのか,試行錯誤を繰り返すばかり。