そんな症状が、ハツカネズミで確認されたようです。ソースはこちら。
ぜひいつか試してみたいところ。しかし僕はまだ時差ボケを体験したことがないんだよなー。でももう年とったからなー。
このK先生が担当する体育の授業は、 経験者や上級者だけが 得意満面で暴れ回るヒエラルキー構造ではなく、 劣等生でもスポーツを楽しめるようになるには どうすればいいか? という観点が いつもあったと思います。
ざっと読んだらすごく面白かった。絶対成績を課すのではなく、相対成績を課す、みたいな。
そういえば僕も運動が苦手だったな。いやちょっと待てよ。というわけで次のエントリにつづく。
さっき僕は運動が苦手だったと書いたけど、それは実は正しくなかったような気が、今はしている。
実際は僕は、自分の父親によって、そういう強迫観念・苦手観念を植え付けられたのだと思う。どういうことかを以下に記す。つらい記憶である。
僕は小学生のとき、通信簿をもらうとほぼオール5、みたいな子どもだった。だが体育だけはいつも、2 とか 3 だった。
そんな通信簿を見て僕の父が言うことはいつも同じだった。
「なんだよ、 またお前は 体育がこんな悪い成績なのか。」
何年生になっても、いつもこれだけだった。体育のことだけしか言わなかった。つまり、国語や算数の 5 をほめてくれなかった。それどころか、理科が 4 だったりすると、「なんだよ、理科は 4 なのかよ。」と 5 でないことについてのみ言及した。
中学生になっても高校生になっても大学生になっても同じだった。同じというのは体育の成績の悪さをけなされることではなく、なにもほめないという点。
テストで100点を何回とっても、泳げるようになっても、自転車に乗れるようになっても、ギターが弾けるようになっても、彼女ができても、ほめてくれなかった。僕が何を果たしても、僕の父親は何一つとして一緒に喜んでくれるようなことはなく、そして僕をほめてくれなかった
要点を記す。僕は、自分の父親にほめられた記憶が、ひとつもない。本当にない。顕微鏡で探せばあったのかもしれないが、記憶にはまったく残っていない。
僕は、そんなにほめられる価値がまったくない人間なのか。自覚しないまま、僕はそう思わされていたような気がする。
さらに記す。僕は自分の父親から「ありがとう」と言われたことも、一度もない。
僕は、そんなに感謝される価値がまったくない人間なのか。自覚しないまま、僕はそう思わされていたような気がする。
しかし大人になって、あすみちゃんや友達が育った家庭の様子を見聞きして、やっとわかった。僕が育った家庭は異常の極みで、僕の父親はクソだった。
そんな僕が恐れているのは、自分が父親になってそんな不幸の再生産をしてしまうのではないか、ということだ。異常な親の異常な仕打ちを、その被害者であった子どもが繰り返す。なんかよく聞く話。このことを思うと僕はいつも背筋が凍る。
だから僕はあすみちゃんや周囲の人たちに助けていただきながら、不断の努力でそれを断ち切らなければならない。みなさん本当によろしくお願いいたします。
コドモが3歳すぎると実感すると思いますが、コドモは自分の分身でなく、他人なんですよ。コドモと接するときは、愛情の注ぎ方は自分の分身で、躾や教育は他人のコモドという意識を持つのが一番重要だと思います。<br>コドモは自分の分身だという意識をいち早く捨てられるかが、ポイントだと思いますよ。<br><br>今の自分に胸に手を当ててみれば、おれは両親の分身でなく他人だけど、両親には他人と違う気持ちを持っていることに気づくと思います。<br><br>それを裏返して、コドモに接すればいいわけで。<br><br>(気を悪くされたらすいません。)<br>反面教師ってコトバがあるじゃないですか。<br>大丈夫ですよ、けんごさんは。
コメントありがとうございます。胸にしみます。僕のほとんど書きなぐりのようなエントリに対してスミマセン (^^;)<br><br>子どもは他者であるという概念は、僕もアタマではすでに持っていまして、しかも強いほうかもしれません。なんせ独立心オーセーでロックな育ち方をしたので。むしろスーパードライすぎるかもしれないので気をつけないと(笑)。<br><br>反面教師については、そう思う気持ちもあるんですが、手本がないという不安もすごく大きいです。黄金律と白銀律でしたっけ?別エントリで書いてみますね。